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The New Takeuchi Journal Plus+

On The Web Worldwide Since 2001.01.01

☆高浜列伝☆

涙、感動を笑い飛ばす、どうしようもなさ。少年達はどうしてこんなに馬鹿なのか?
「生産性?そんな言葉、海に捨てたよ。」

こんな時代だからこそ、あんな時代のことを語り継がねばならない。これはもはや私に課せられた使命だ。

(ホワイトドラゴン飛翔伝)

ぼくの中で白龍隊のテーマソングはブルーハーツの『情熱の薔薇』ということになっている。授業中の廊下で朗々と歌いながら、悠然と歩いていく姿が印象に残っているからだ。当時、普通の人はTMネットワーク米米クラブが好きだったようだ。ぼくは音楽に無関心だった。でも、少し生意気だったので、洋楽を聴きたいと思って、借りたCDがビースティボーイズの2nd。なんにも知らないでバンド名がかっこいいから借りた。そのときダビングしたテープは今でも持っている。ちょっとかっこいい話でしょ。

授業中、中学の廊下を白龍隊の乗る自転車が走り抜けた。さわやかな風を巻き起こし、ベルがチリンチリンと鳴った。なにかおかしい?ここは2階だ。自転車はどうやって入ってきた?やっぱり担ぎ上げたのだろう。これも白龍隊の仕業だ。おもしろい、2階の廊下を自転車が走ってしまうなんてほとんどギャグだ。ぼくは机に突っ伏して、体を小刻みに震わせた。笑いをこらえる唯一の方法だった。

高浜中のアルバムを開くと航空写真がまず目に入ってくる。全校生徒が校庭に集い、学校のマークを形作っている。それを上空から撮ったものでオープニングを飾るにふさわしいアニバーサリー作品といえよう。その学校マークの右上になぜか「白」の人文字が形成されている。カンの良い方ならお分かりだろう。白龍隊が自らの存在を刻印するために人文字をつくっているのだった。人数不足のため「白」一文字になっているが、人数が多かったとしても「龍」をつくるのは至難の技であったにちがいない。

高浜を語っていくうえで白龍隊のことを抜かすわけにはいかない。そう、それはコーヒーにおけるクリープのようなものであり、われわれの日常であった。もし、中学が荒れていなかったら、あれほど楽しい生活を送れたものか疑問符をつけたいところだ。白龍隊は荒れる高浜中の象徴というべきワル仲間だった。先生達にとっちゃ大変だったろうけど、ぼくたち普通の生徒は見ていて楽しかった。ところで白龍隊の名前の由来はなんなのか。それをぼくは知らない。

(海浜公園マニアックス)

公園の一部はうっそうとした森になっていて、なにがあるのか得体の知れないところがあった。ときどき、首吊り死体が見つかったと風の便りに聞き、それがまた不気味さを増長した。森の中を探険していると、突然現れる椅子や机。これは子供達が秘密基地をつくった跡である。ある意味、遺跡である。

小学校の頃、BB弾拾いという地道な遊びが流行った。当時、海浜公園ではエアガンで遊ぶ人が多く、その残物としてプラスチック製の弾だけが残されていた。川の中にまで入って、その弾を拾うのがぼくたちだった。ただのプラスチックの弾といってしまえばそれまでだが、いろいろな色があってきれいなのだ。とくに透明で色が付いているものは価値が高かった。なにより種類がかなりあってコレクター心をそそるのだった。思えばぼくの収集癖はこのあたりが原点といえる。

海浜公園には池がある。園内を細い川が縫い巡り、水の中には意外なほどにさまざまな生き物がいた。透明な川エビ、焦げ茶色のハゼ科の魚などが多かった。川エビを捕るには空き缶の中にパンでも入れてしばらく放っておくと勝手に中に入っている。欲をいえばパンは油分の多いクロワッサン系のものが良く、空き缶の代わりに透明のペットボトルを使うと中が見られるので便利だ。今はたぶんいないんだろうな。

稲毛海浜公園はぼくの少年時代の主戦場で、さまざまな遊びに利用させてもらった。小学生低学年の頃、千葉市たこあげ大会というものに参加して、ファミリー賞というのをもらった。家族4人そろってたこをあげていたのが評価されたのだろうか?そのころはなにも疑問に思わなかったが、『ファミリー賞』とは、いったいなんなのだ?たこのあげかたがうまいわけでもなし。なにを評価しての賞なのか?不思議でしょうがない。

バドミントン愚連隊)

高浜中でもっともパンクな集団。それがバドミントン部である。アグレッシヴでパワフル。その情熱はバドミントンだけに向けるには激しすぎた。空回りするパッション。それはスポーツの汗より美しい。

Hくん作戦。中学校2年だ。悪の巣窟バドミントン部は秘密の作戦、その名も「Hくん作戦」を開始した。なんのことはない。内容などないに等しい。部員ヨモギダくんを、ひそかにホモギダくんと呼び、頭文字の「H」をとって、Hくんと呼ぶ。それでもって影でコソコソ「Hくんが・・」とか話してみるだけだ。軽いイジメ?うーん、微妙なところだ。実質的被害はないからな。それじゃあ、なんでそんなことをやったのか。それが最大の謎である。

外周。それは足腰を鍛えるため、学校の外周を走り回ることを指す。走ればすぐ終わるが疲れる。それにただ走るなんて安直だ。だからサボる方法を考える。クリエイティブな才能が要求される。コツとしては学校から見えない範囲に入ったら、タラタラ走り、校門の前では苦悶の表情、ハァハァ言うのもいい。今考えれば世渡りの練習であった。

ダンプ。バドミントン部女顧問にして、部員達の前に立ちふさがる壁である。好きな色は赤。車もバイクも赤。真っ赤。彼女に嫌われるとレギュラーになる権利を剥奪され、その結果やる気のない部員がまた一人誕生する。

バドミントン部は野球大好き集団だ。プロ野球12球団のファンがそれぞれいたくらいなのだ。スポーツ新聞のチーム番記者さながら週刊ベースボール東京スポーツなどで情報収集しては、互いに新ネタを見せあった。今は千葉に来たロッテ。当時は川崎球場がホームグラウンドで、珍プレー特集ではスタンドで麻雀をしてヒマをつぶす観客が紹介されるほどで、その閑古鳥っぷりは、我々に笑激を与えた。ほどなくして「川崎球場観戦ツアー」が部内で組まれ、日曜の部活を堂々とサボって川崎に繰り出した。スタンドはがら空き。まさに裏フィールド・オブ・ドリームス。夢の舞台に立つようにわれわれは席に着き、強い日差しに目を細めた。

ザクロ。部員カズくんに付けられたあだ名だ。意味は特にない。外周をやっているとき鬼ごっこモードにはいり、「じゃあ、負けた奴、ザクロね」というなにげない一言からはじまり、いまだに語り継がれているのだ。冗談だったのに敗者カズくんは「ザクロ」と呼ばれ、のちには“ザッくん”とまでいわれるようになった。それにしても、なぜザクロ。わからない。インパクトがあったことだけがその理由だ。こんな言葉でいやがらせになるから子供の世界はこわい。

キャッチボール。外練メニューは公然と無視される。そのかわりにバドミントン部員達はグローブとボールをもって体育館脇に集まる。高浜中は県内有数の広大な敷地面積を持ち、無駄な場所には事欠かない。その空き地の有効利用としてキャッチボールをするのだ。スパーン!白球がミットにおさまる。額からしたたる汗。失敗して見せる白い歯。文句なしにさわやかだ。しかし、なにか勘違いしていないか?あなたたちはバドミントン部でしょ。しかし、もっとも輝いている瞬間なのは疑いようがなかった。

部員にとって初の晴れ舞台であるはずの一年生大会に、われらが高浜中バドミントン部は出場しなかった。いや、出場させてもらえなかった。その前に行われたなにかの大会で先輩を応援するためギャラリーに陣取ったわれわれは騒音をまき散らし、さらには禁止されているガムを食べるなど、狼藉の限りを尽くした。その態度に顧問のダンプが切れて、「おまえらは一年生大会に出場させない!」と怒鳴ったのだ。そして、実際エントリーしてくれなかった。鬼・・。けれども、部員はめげなかった。だって、ぜんぜん試合なんて重要視してなかったのだもの。カンケーないっすよ。という感じだった。

バドミントン部は体育館ではどんな練習をしているのか。これまでそれには触れてこなかった。とにかくシャトルを打っているのだ。人数が多いので全員が打てるはずもない。なにしろ女子バドミントン部と体育館の半分をまた半分にして使っているので、コートは一面と半分しかないのだ。ひまな人が必ずでてくる。ひまな人はまあ、立ち話をしている。買い物帰りのおばさんの風情がある。で、打っている人が満足すると、次の人に交代。ミスしたら交代ということが多かった。ミスしなくても、疲れて交代するのもアリだった。不熱心ではあったが、室内の練習はそれなりにみんな楽しんでいた。

100本ノック。高浜中名物の地獄の練習である。というかこんな練習で強くなるはずがない。ぼくが進学した学校がバドミントンの強豪校だった。そこの連中に言わせるとこの練習はバカげているのだそうだ。体力を消耗するだけで正確なショットが身につかないそうである。もちろん部員だけで練習しているときはノックなんてやらない。顧問のダンプ先生がノリ気のときに行われるのだ。


バドミントン部パワーが炸裂したのは、ぼくたちが2年のとき。その日は総体、つまりは先輩である3年生最後の試合の応援に向かったのだった。千葉公園体育館で最後の戦いに挑む先輩たちを尻目にぼくたちは近くの駄菓子屋で水鉄砲と水風船を購入。それを使った大規模な軍事演習に突入した。服は濡れ、なにをしに来ているのか分からなくなった。しかも、応援に行かなければならない試合もすっぽかしたため、顧問のダンプは当たり前ながら激怒!「お前ら帰れ!」と叫び、大半が帰宅させられた。運良く生き残ったのはのちに部長を押し付けられる孝典とぼく。みんなとはぐれたので運良く体育館に戻って来られていたのだ。ラッキー!

ファミコン風雲録)

ファミコン。それがなかったらぼくたちの少年時代はモノクロだったはずだ。生活を8ビット256色に染めたファミコンの功罪を今問い直す。

グーニーズパーティ。それは祝祭。小学校4年、古田くんはファミコンソフト「グーニーズ」を購入。それを祝してパーティが執り行われた。
パーティのさなか、あまりのおもしろさに感極まったか古田くんは「おれ、グーニーズを最後にファミコンやめるよ」と宣言した。衝撃的だった。
しかし、パーティ後も古田くんはファミコンをやめなかった。弾みで口走った発言だ。だれも聴いてやしない。聴いていた奴など僕ぐらいのものだった。少年はいいかげんなものだ。

スーパーリセットボタン。秘中の秘とされる恐るべき裏技だ。冬、こたつに入りながらファミコンをしているとき、わざとらしくリセットボタンにふとんを掛けておく。対戦ゲームで自分が不利になりはじめたら、足を伸ばすふりなどして、ふとんの上からリセットボタンを押す。試合はノーカウント。再試合だ。将棋盤をひっくり返すのに通ずる。

中居渉。それはファミコンのカセットだけを持っている男。彼は『わたる』という名前どおりに本体を持っている人の家々を渡り歩く。勝負事にはかなり強い。前項のスーパーリセットボタンの発明者でもある。「ロードファイター」、「イーアルカンフー」などのコナミ製品の愛用者としても有名。

スペランカーアイレムが発売し、いまだに強い影響力を持つ裏カリスマソフト。第一のポイントとして、主人公がすぐ死ぬことがあげられよう。エレベーターにつまずいては死に、小石に引っかかってはゲームオーバーになる。あまりの弱さに人間のはかなさを感じ、笑いがこみあげて来るくらいだ。もう一つのポイントはゲームオーバーの時の音楽。妙に印象的なのだ。一説では日本人の八割の琴線に引っかかるという。プレイ中の音楽がやけに元気なので、それとの対比もあろう。宇井野はこのゲームの達人でゲームオーバーにならず、何周でもできてしまった。しかし、あのゲームオーバーの音楽を聴けないのは一種の悲劇である。

グラディウス大会。忠実屋→フランツ→ディスパ→Dマートという名前の変遷を遂げている稲毛海岸駅近くのスーパーがまだ忠実屋だった頃の、ある日曜の話。4階駐車場に子供、子供連れが大挙して押しかけた。毛利名人グラディウス大会に来るというのだ。毛利名人は当時京大生でコナミ専属の名人として活躍していた。ハドソンには16連射高橋名人バンダイの橋本名人なんてのもいた。歓声に迎えられステージに上がった名人はデモンストレーションとして、グラディウスをプレーした。ワープを多用し、クリアまで10分もかからなかったのではないか。スゲェ。素直に感動した。その後行われた大会で、ぼくは名人を意識し、いつもとちがうプレーをしようとしたら、なんと1面でミス。慣れないことはするものではない。

16連打といったら高橋名人。それはゴホンといったら龍角散、ピッチャー振りかぶってといったら第一球というくらいに切り離せない関係にあるのだ。高橋名人はコントローラーにバネを仕込んでいるなどという、まことしやかなウソが流れたりもした。連射ブームに気をよくしたハドソンシュウォッチという連射スピード計測する装置まで発売した。装置なんて言うのは大げさで、単にストップウォッチにボタンが付いているだけ。10秒間連射し続けたあと、その回数を10で割って1秒間の連射記録が測定できるという子供だましである。当時の子供達、つまりぼくたちは休み時間になると記録を競った。けれどもすぐ廃れた。だって単純すぎるんだもの。

魔界村」といったら、最初はゲーセンにあって、その秀麗なグラフィックがわれわれの目を釘付けにした。その「魔界村」がファミコンに移植された。グラフィックは数段見劣りしたが、それでもヒットした。このゲーム、実はやたらむずかしい。尋常な努力ではクリアできない。そんな時期、ぼくは英語塾で魔界村の面セレ(面を選べる事ね)情報をおぼろげに立ち聞きした。その時はウソだと思っていたのだが、しばらくすると『「魔界村」に面セレがあるらしい」といううわさが流れはじめた。なにぃ!とビックリしたぼくは記憶を頼りにコマンドを入力した。すると、面が選べたのだ。驚いたね、このときは。ついでにあんなに途中の面がむずかしかったのに最後のボスがやたら弱いのにも驚いた。

続連打話。ゲームマンガといったら、最初は「ゲームセンターあらし」。これはごく初期のものなのでインベーダーゲームに命を懸けたりしている。今見ると設定自体がギャグだ。ぼくたちが現役のときにあったのが「ファミコンロッキー」。今も昔も子供のバイブル、コロコロコミック連載で、「ゲーセンあらし」をさらにブーストアップさせた過激なものだった。特技はなんと50連打、のちには100連打という技に進化した。現実的とかそういうレベルでなくて、速く叩ければいいというものではない気がする。シューティングゲームではむやみに打つより、敵の弾をよけるのが最大の武器になりうる。そんなのは大人の考え、子供はより多く、速くをめざす。アメリカの思想だね。

ドラゴンクエスト2は画期的なソフトだった。内容でなくその存在がである。はじめて、発売日に行列ができたりしたソフトだと思う。ぼくはそのころドラクエのおもしろさがよく分からなかった。ドラゴンクエストの“1”がそんなに周りで人気がなかったからかも知れない。実際ドラクエの“1”はおもしろくなかったと思う。ゲームバランスが悪かった感じがする。ドラクエ2以降、発売日に入手することが重要視され、ソフトのカツアゲなんかも起きるようになった。ちなみにドラクエ2はぼくも大好きでした。仲間の名前がランダムで決められちゃうのがいいんだ(自分で決められる裏技もあったけど)。ぼくはアーサーとアイリンだった。

ぼくがファミコン関係で一番血の気の引いた話。ドラクエ3を三角に借りたぼくは、イヤッホー!すぐにプレイしたいぜ!とばかり、階段を駈けだして降りていった。で、コントのように転んだ。ドンガラガッシャン!そんな音がしたはずだ。手からは借りたカセットがスローモーションで離れていき、運が悪いことに階段のすき間から落ちていき、フロアにして2階分転落した。人間でも骨折を免れない未曾有の転落事故。ぼくはカセットの無事を確かめ一息ついたが、データは消えたものと思い、覚悟を決めた。でも、運が良かったのか。データも無事だった。フゥ、これまで誰にも言わなかったが、これは事実である。