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異端者の勝ち鬨 ~ 谷崎潤一郎「春琴抄」について ~

この小説は非常に攻撃的だ。家族制度や性のモラルに対する嫌味といって差し支えない。内なる敵を描き続けた谷崎の小説には珍しく、外側の敵が描かれている。それは「あれでこいさんはどんな顔をして佐助どんを口説くのだろう」と陰口をたたく奉公人達に代表される。もっともいやらしく書かれているのは、梅見の宴で盲目の春琴の前に「わたい梅の樹だっせ」とお道化て現れる男で、悪気がなかっただけにいっそう悪質だ。

それに対し、春琴と佐助はモラルを無視して、自分たちのルールで片を付けていく。無視というのは適当でないかも知れない。モラルというものをないことにしてしまっているのだ。そのための装置として、盲目というものが使われている。佐助が盲目になっていくのもサドマゾの関係で語られるべきにあらず、あくまでアンチモラルのための装置として語られるべきだと思う。

主従関係も含めての完全なペアである二人に降りかかるのは、モラルによる攻撃だ。子供の存在さえも二人にとっては攻撃のようなものだ。主従関係を揺るがす、親子、夫婦という関係は敵に他ならない。二人はお互いを必要としているが弱く、最初に結んだ関係を保っていく以外に生き抜く術を知らない。谷崎はこの弱い二人が彼らなりの幸福を手に入れられるよう、最初から最後まで導き続ける。そこには異端者への愛情とやさしさが満ちている。

幸福な二人の関係が、最大の危機を迎えるのは、春琴が顔にやけどをする場面だ。春琴は珍しく弱気になり、佐助に醜い自分の姿を見られたくないと涙を流す。もっともセンチメンタルな場面のひとつであり、読み手の心を揺り動かすが、二人の関係からいえば非常に危険だ。これまでの美しい女主人としての春琴は死んだも同然だからだ。二人の関係もこれまでかと思わせたところで、佐助が針で目を突き盲目になり危機を回避する。佐助は「ほんに私は不仕合わせどころか此の上もなく仕合わせでござり升卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござり升佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁して泣いた」とあり作者自身の爽快感が見え隠れする。

いってしまえば、この爽快感のために、佐助は三味線や春琴の手引きといった盲目になる訓練をしてきたようなものである。一般向きではないが、結果的に幸福になるための訓練を積んでいた。そうして春琴と佐助は幸福な一生を終えていく。異端者の勝利を描いた希有な小説だ。文中には「唯明白な一事は、子供がままごと遊びをする時は必ず大人の真似をする」と二人を特別視する社会に対して、本当にグロテスクなのはどちらかといわんばかりの一節もあり、最後に「読者諸賢は首肯せらるるや否や」と踏み絵を迫る。句点のない最後の一行、その向こうには谷崎の不敵な笑みが浮かんで見える気がしてならない。

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)